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ひらかたの歴史

枚方の歴史文化遺産とロマンあふれる伝説

枚方には古代から現在に至るまで、様々な時代の歴史的・文化的遺産があり、ロマンあふれる伝説や伝承が数多く残っています。枚方市の詳しい歴史を知りたい方は →枚方市・文化財課のサイトへ

古代の枚方

古代の枚方は朝廷や渡来系氏族と深く関わりのある場所でした。
第26代継体天皇は、交野天神社境内の末社貴船神社付近がその推定地といわれる「樟葉宮」 で即位したと『日本書紀』に記されています。
また、朝鮮半島の戦乱を逃れ日本へ渡ってきた百済王氏が、天平22年(750)に宮内卿兼河内守に任ぜられた後、 枚方の中宮に移り住みました。「百済寺跡」は昭和27年に国の特別史跡第1号として指定されています。
平安時代には、「交野ヶ原」と呼ばれる天野川以北を中心とする一帯で 鷹狩りが行われ、六歌仙の1人である在原業平が惟喬親王と訪れた「渚院」に、見事な桜が咲いていたと古典『伊勢物語』は語っています。

中世の枚方

「にほんの里100選」に選ばれた東部地区にある三之宮神社は、周辺の惣村的自治組織の中心的存在でした。招提地区には敬応寺を中心とする寺内村が、枚方元町周辺には順興寺 (現在は場所を変え願生坊に)を中心とした枚方寺内町が形成されていました。
招提の町並みは、周囲に土塁を巡らした当時の面影が伺えます。枚方寺内は、後の枚方宿の中心となる三矢を 入口とする古道が残り、万年寺山へと繋がっています。

近世の枚方

豊臣秀吉が築いた「文禄堤」を基礎に、徳川幕府は「東海道」の延長として街道を整備し、「枚方宿」を置きました。岡新町、岡、三矢、泥町の4つの村で形成された町並みは、 現在も枚方宿鍵屋資料館を中心に散策ルートとして人気があり、大阪ミュージアム構想の指定地域となっています。
また、幕末の遺構として、日本に唯一残る河川砲台場跡が楠葉の久修園院近く にあります。政情不安の時勢、都へ出入りする者を取り締まる関所を兼ねた構造になっており、現在は農地となっていますが、その構造が見て取れる貴重な遺跡です。


枚方宿の歴史について ー水路と陸路と・・・交通の要衝・枚方宿の歴史
京と大坂をつなぐ淀川の中間地点に位置する枚方は、早くから人と物の行きかう交通の要衝として注目されてきました。

その立地的な利便性から、戦国時代には浄土真宗・順興寺(じゅんこうじ)を中心とした「枚方寺内町」が形成され、本願寺の保護のもと商工業が活発におこなわれました。寺内町に隣接する淀川岸の三矢浜(みつやはま)も、寺内町の流通拠点となる水運の港として、集落が開けていたようです。

枚方寺内町は、元亀元年(1570)に織田信長の焼き討ちにあって衰退したと推測されていますが、その約30年後の文禄年間には、豊臣秀吉によって治水のための堤防と街道の役割を兼ね備えた「文禄堤(ぶんろくつつみ)」が淀川左岸に築堤され、そのルートにあたる枚方は陸路の中継地としても活気を取り戻しました。

さらに、江戸時代に徳川政権が樹立されると、文禄堤は東海道の延長部に組み込まれ、京と大坂を結ぶ京街道(大坂街道)として整備されました。枚方は大坂から2番目の宿場に指定され、江戸時代以前から港として開けていた三矢村に本陣や問屋場(といやば)が置かれ、宿場の中心になりました。

また、淀川開発が進んだ江戸時代には、舟運の支配機構・制度も整えられ、三矢村近辺には浜問屋・船番所が置かれました。「三十石船(さんじっこくぶね)」と呼ばれる乗合船の乗船場を控えた旅籠(船待ち宿)が登場し、煮売茶船(くらわんか舟)の商いが名物になるなど、枚方は都市間をつなぐ水陸交通の中継地として、おおいに賑わったのです。
寺内町・枚方 ー順興寺の寺内町として栄えた枚方
戦国時代、浄土真宗中興の祖、本願寺第8世の蓮如上人は、北陸・畿内に教線を拡大し、文明10年(1478)には山城国山科に本願寺を建立しました。しかし、天文元年(1532)に山科本願寺が焼き討ちにより焼失したため、本願寺は大坂石山に移りました。これに伴い、大坂から近江・北陸という教団の本拠地を一本につなぐため、水陸交通の要衝となる地に、本願寺の宗主の縁戚を住職とする浄土真宗寺院を配し、寺内町を築きました。

枚方寺内町も、本願寺の大坂移転にともない建設された寺内町の一つと推測され、順興寺を紐帯とする自治的な町が形成されていました。順興寺の創建年代は明確にはわかっていませんが、天文12年(1543)に記された『天文日記』にその名がみえ、永禄2年(1559)には蓮如の第27子の実従(1498~1563)が入寺して町を整備しました。

実従の残した日記『私心記』によると、枚方寺内町は「蔵之谷」「上町」「下町」の三つの町で構成されており、周囲は丘陵や人工の土塁や堀で守られていました。寺内町には、紺屋や油屋、味噌屋、鋳物屋、質屋といった商人や職人が集住し、淀川の三矢浜を流通拠点とした活発な商業活動がおこなわれたとみられます。

枚方寺内町は、織田信長の兵火によって16世紀後半には衰退したとみられていますが、寺内町の浜出し・浜揚げの港として利用された三矢の町が、やがて築かれる京街道枚方宿の中心街へとつながっていきます。
宿場町・枚方 ー京街道の宿場町として栄えた枚方
豊臣秀吉は、文禄年間、諸大名に命じて淀川左岸に「文禄堤」を築造しました。大阪平野を氾濫から守る淀川治水のための堤防であるとともに、堤上を人が往来できる街道の役割を持っていました。天正11年(1583)に大坂城を、文禄3年(1594)に伏見城を築城した秀吉は、両者をつなぐ幹線道路としてこの堤を築いたのです。 しかし、文禄堤築堤後のわずか5年後の慶長5年(1600)に、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利して覇権を奪い、つづく元和元年(1615)の大坂夏の陣によって大坂城を掌中に納めます。家康は、関ヶ原の戦いの翌年から江戸と京をつなぐ東海道の整備に乗り出しましたが、大坂城の接収後は、文禄堤を東海道の延長部に組み込み、守口・枚方・淀・伏見を宿場に指定しました。「枚方宿」は、東海道全体でいえば、江戸品川から数えて56番目の宿場になりましたが、通常、大坂-京都間は「京街道(大坂街道)」などと呼ばれていました。

「枚方宿」の範囲は、かつての文禄堤上に位置する岡新町村・岡村・三矢村・泥町村の4村で、本陣・問屋場・高札場は三矢村に置かれました。4村は幕府直轄領に属していましたが、宿場としては道中奉行の支配を受け、人馬役の負担が義務づけられました。助郷は周辺28ヵ村にも及びましたが、京街道の宿場は淀川舟運に貨物・旅客をとられ、上り方向(京都方面)に通行量の片寄る「片宿」の状況を呈していました。枚方宿は旅籠屋が多いのが特徴で、歓楽街としての賑わいもみせていました。
港町・枚方 ー三十石船の中継港として栄えた枚方
度々氾濫を起こし、治水と河川改修の歴史に彩られてきた淀川ですが、経済・文化の中心地をつないで流れる水量豊富な大河であることから、古代から舟運に利用されてきました。流域全体での統一的な開発は、豊臣秀吉によっておこなわれ、江戸時代に黄金時代を迎えました。

淀川左岸に文禄堤を築き、京街道の基礎を作りあげた秀吉は、淀川舟運の整備にも精力を注ぎました。京都盆地の南にひろがる巨大な遊水池、巨椋池に注ぎ込んでいた宇治川を、堤防で区切って淀川と繋ぎ、伏見城の堀割に港を設けました。この大工事によって、伏見から大阪湾に至る一本の大動脈が開通し、大小様々な船舶が就航して貨客を運んだのです。

江戸時代の枚方には、浜問屋と過書船・伏見船の船番所が置かれ、さらに「三十石船」と総称される、大坂と伏見の間を往来する旅人乗合船の船着場も置かれました。船の発着駅の役割を兼ね備えた旅籠を「船宿」といいますが、伏見と大坂の港には各25軒(天保8年)もの船宿が営業していたようです。現枚方宿鍵屋資料館の前身、旅籠「鍵屋」は幕末頃になると、屋敷裏手の船着場を利用する三十石船の船待ち宿として繁盛しました。

また、江戸時代の枚方からは、小舟を使って餅や酒、ごんぼ汁などの軽食を、三十石船の船客に商う煮売茶船が出されており、売り子の威勢のよい売り声から「くらわんか舟」と愛称され、淀川の風物詩として親しまれていました。明治時代には和船にかわって蒸気船が就航しますが、明治43年の京阪電車開通によって、運輸は次第に鉄道に移っていきました。
枚方宿鍵屋
鍵屋は、伏見と大坂を結ぶ三十石船の船待ち宿として江戸時代に栄え、近年まで料亭を営んでいました。
主屋は淀川沿いの旧東海道(京街通) に面し、通り庭、起り屋根、摺り揚げ戸など、江戸時代の町家の構造を残す貴重な歴史的建造物で、平成9年に市の文化財に指定されました。
その後、平成13年7月3日に 「市立枚方宿鍵屋資料館」としてオープンし、館内では、東海道の宿駅と淀川舟運によって繁栄した枚方宿の歴史を、音声や映像、模型など様々な演出を駆使してわかりやすく解説しています。

特定非営利活動法人 枚方文化観光協会 〒573-0032 大阪府枚方市岡東町19-1 枚方市駅市民サービスセンター内 TEL:072-804-0033 FAX:072-804-0022 お問い合わせ受付時間 午前9:00〜午後5:30(休業日:水曜日・土曜日)
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